生涯喪女。




単刀直入に言うと9割9分9厘確定だと思います。よく、私は彼氏が出来ないんじゃなくて作らないタイプなの〜というどう見ても負け惜しみ乙としか言いようがない持論を振りかざす女性がいますが、私の場合はそんなものでプライドを守る必要はなくただ単に素直に純粋に「できない」のです。ただ現在のところ、すごく彼氏がほしい訳じゃない。だから別にいいのですが仮にほしくなった時、きっと人並のやり方ではできないと思うのです。
私が最後に人を好きになったのは恥ずかしくも、中学3年生。病弱で月曜日は絶対休んじゃう、もっと言えば週に3日登校すればいいほうな、静かだけど話すとすごく面白い人でした。あと髪質が異様にふわふわしてそうだった。ていうか雰囲気自体がふわふわしてた。よく漫画とかの話をしてました。彼は確か銀魂が好きだったと思う。この私が、席替えの際に希望用紙に「○○君の隣にしてください」と書くくらい好きでした。この私がですよ。自分でもよくあんなトチ狂った事ができたなと今になって恥ずかしくなります。でも結局その人は学校に来なくなってしまって卒業式も欠席、それから今日まで一度も顔を見ていません。あの時もしも手紙の一通、否、たった一言の伝言でも担任を通して伝えてもらっていたら何か違う思い出になっていたのかなとこれを書きながら考えていましたが、彼はそういうのに興味がないタイプだったのでやっぱり何も変わらなかっただろうなという結論に至り、残念な気持ちと安堵の気持ちが交差し複雑な心境になりました。
それから高校に上がり、周りは皆キャピキャピしている中で私はもともとの冷めた暗い性格と、一緒に受けた友達が落ちてしまったせいもあり最初の頃は本当に学校が憂鬱でした。恋もへったくれもありゃしない。それでも、少ないですが徐々に友達ができ、自分の居場所を見つけられたような気がします。そして私はシドとかいう落ち目V系バンドを何よりの心の拠りどころにし、毎日毎日周りに呆れられながらも口を開けばしんぢしんぢ(シドのギター)と言っていました。ある意味これが恋です。中学生の頃もそれなりに好きだったのですが高校性になりお金や行動範囲の制限がなくなったというか自由度が増したことで、より深く情を入れ込むようになりました。下校時に付き合いたての男女がちんたら歩く横を足早で追い抜き、次のライブ楽しみだな〜とメンバーのブログやツイッターをチェックするような日々でした。
しかしそんな色恋沙汰とは程遠い日常の中で考えることがありました。一言でいうと、特定の女子数人に対する「なんでコイツに彼氏がいるんだろう」という疑問です。それこそ負け惜しみだろうと言われても仕方ありませんが、これを読んでる中にもし私と同じ高校だった人がいるならきっと一人や二人思い浮かぶのではないかと。そう、アイツとかアイツです。まあその場合、彼氏は大抵容姿が残念系かDQNでした。そして1クールか早ければ1ヶ月くらいで別れる。もうね、馬鹿なんじゃないかと。何が楽しくてそんな男女交際とは名ばかりの生ぬるい彼氏彼女ごっこをするのかと。そんな人達を見ながら私は間違ってもお前らみたいな趣味の悪い遊びはしないぞと神と先祖に誓うのと同時に、あんな奴らでも彼氏ができるんだからいつか私が遊びじゃない恋をした時はあんな不細工やDQNとは比べるまでもないような素敵な彼氏ができるよね?と、まるでロコちゃんが一日の終わりにハム太郎に語りかけるときのような優しい眼差しで私は携帯の待ち受けのしんぢ(シドの以下略)に問うのでした。
そしてそんな高校生活も終わり社会人になってしばらく経った今。期待を裏切らず清き喪女の伝統を守っている所存であります。
また自分は、幸いにもなのか逆に不幸にもなのか、一人でいるのが平気です。ふらっと思いつきで初めて行くラーメン屋にも一人で入れる程度には一人行動が苦じゃありません。だから始めに書いたように今は彼氏がいなくても全く寂しいとは思わないのですが、それはあくまでも本当に「今は」で、この先20歳になり25歳になり30歳に近づいたとき、今と変わらず一人が好きでいられる保証はどこにもないんです。数少ない周りの友達は結婚しているかもしれない。下手したら子供もいるかもしれない。その現実の中に一人焦っている自分が容易に想像できてしまうのが怖いです。だから早いうちからもっと出会いを求めて生きていかないとダメなんだと頭では分かっていますが、コミュ障であまり人と付き合うのが得意ではなく、まず必要な時以外は自分から初対面の人に話しかけようとは思わず、その結果やっぱり一人が楽だなぁと思ってしまって、堂々巡りを繰り返しています。

このままだと普通に考えて自分は今の趣味である、バンドマン依存や二次元を飽きるまで楽しんだ後、あっという間に過ぎ去った時間を悔やんで取り返しがつかないことをしたと泣くのでしょう。わかっています。でももうそれでいいんです。薄いとはいえV系バンドが好きで、まだ腐ってはいませんがいつそっちの世界にこんにちはしてもおかしくないオタク女でしかもトドメをさすように高身長な女を、理解してくれる人ですら存在するか危ういのに、そのうえ好いてくれる物好きな人、ましてや生涯の伴侶にしてくれるスーパー物好きな人なんてドラえもんの力を借りても現れないことはとっくの昔から明らかなんです。私はのび太より厄介な人間。彼氏や結婚などもはや都市伝説になりつつあります。だからもうあれこれ考えるのはやめて、どうやったら彼氏ができるのかを悩むよりも一人で老後を過ごし誰にも看取られずに死んでいくことに対する覚悟のほうが、何倍も必要なことなのではないでしょうか。開き直る気持ち、諦めの気持ち、受け入れなきゃという気持ち。全てが混ざった結果です。どうにもならないことをどうにかしようとする労力を、どうにもならないことをそのまま綺麗に受け止める為に使うほうがよっぽど有意義なんじゃないかと気付きました。
結婚し子供を産んで温かい家庭を築くのが女の幸せだというなら私は一生不幸でいい。少子高齢化が進んでいるこの愛する日本の役に立てないのは大変心苦しいですが、その代償として私は死ぬまで一人で生きていきます。愛する人と結ばれたことが運命だとしたら、その逆、出会うことすらできなかったのは宿命とでもいうのでしょうか。私は生まれた瞬間から、ただその宿命のほうに導かれていただけなんですね。
こうして、私は明日からも汚れなき喪女として孤独と絶望をペタンコの胸に抱え、いらん事に首をつっこみながら気に入らないことに噛みつき、たまに自分に科せられた罰の如くふと親の悲しむ顔を思い浮かべてはその度に「死にたい...」と呟く日々を送るのだと、夢も希望も何もない未来を淡々と想像しています。

しかしこれが、私の私たる所以、つまるところ格好よく言えば「生き様」なのだと思います。